周一ぶつぶつ

2019.07.08
子どもの壁、大人の壁

 園長 安 家 周 一

 地区毎の懇談会を始めてそろそろ25年くらいになります。新米園長の頃、保護者の生の声を聴きたくて始めました。園では年に数回全体会として保護者向けに話をする機会がありますが、学年毎の課題や子どもの発達、園が抱えている悩み、幼児教育界全体の動きなどどちらかというと個別案件ではなく大繰りの話しになり、我が子のことからはかけ離れる場合も多くあると思われます。地区毎の懇談会では少人数と言うこともあり忌憚のない意見の交換となります。当初の数年間は、幼稚園・保育園に対する苦情の嵐でした。園の運営、施設設備、人事に始まり、私や担任に対する不満やケガ、子ども同士の関係や保護者同士のトラブルまで、帰園後まとめると精根尽き果てる内容でした。そんな草創期を経て、近頃でも園への不満や素朴な疑問、気になることが話題になることもありますが、どちらかというと子育てや子どもの育ちに関することが多く出されるようになりました。特に第一子男子の相談が格段に多いのも特徴です。ある年の保護者のお話です。

主訴:他の母親から子どもを甘やかしすぎと言われた。何をどう対処したらいいでしょう?

私は一人息子を持つ母親。子どもに振り回されバタバタしている姿を見て、親しい友人から甘やかせすぎていると言う指摘。言われてみると確かに思い当たるところがある。しかし何をどうすればいいのか皆目見当がつかない。甘やかすと甘えを受け入れることの違いやどこまでという基準がわからない。ほめるのが大切だが切断も大切だと言われる。見当がつかない。

これが大方の訴えです。初めて子どもを育てておられるわけで、無我夢中で必死だったと思われます。我が子を良く育てなければと一生懸命で周りは見えていないわけですから、我が子がどのような状況にあるのかを客観視するのは難しいのは当然です。その姿を見かねた親しい方からの忠告です。

「甘やかす」と「甘えさせない」

子どもを慈しんで育てる、これは誰しも正しいと言います。又、3歳くらいまでに親や親しい大人と愛着関係を強く結ぶことは何をおいても肝心、これも本当です。このような共通の価値観は何となく共有されているのですが、かわいがる、慈しむ、受容するなどの抽象的な概念を我が子の育ちに重ね合わせ、適当な判断をするのはことのほか難しいようです。結果的にかわいがりすぎて「甘やかし」の状況になるか、「自立させたい」との思いが強すぎて甘えを受け入れない対応になってしまうこともあるでしょう。当たり前のことではありますが第一子の場合、この調節が判らない方が多くいます。

甘やかされた子どもと甘えられなかった子ども、両極端なように見えますが、意外なことに成人した姿に共通する特徴があります。「他人への依存度が高い」です。いずれも自立することが阻害され、誰かに依存していないと安心できないで不安になります。わがままを主張する子どもに対して、泣かすのはかわいそう、泣かれると長引くのでじゃまくさいなどの理由で言うがままにしているとします。この状態が日常となりますから親と自分が一体化し、親も子も共に依存し合う一体感が当たり前となり、将来的に自立(律)が阻害されるわけです。思春期以降起こる家庭内暴力もこれが原因の一つと考えられています。

子どもは自分がわがまま言っていることを理解できていませんからもちろん罪悪感はありません。加えて大人が壁になって遮らないために簡単に思いが通ってしまいます。本来であればだめなことはダメとしっかり壁になることで、不本意から子どもは葛藤し悔しがります。悔しがりぐずる姿そのものを受容する大人力が試されます。壁を乗り越える努力や抵抗することで子どもは鍛えられ育っていきます。

このような壁になる対応を気にかけると、未分化な段階を経て徐々に自分と他人が切り分けられ(分化)、自己中心性から脱却していきます。そして、場面や人に応じて我慢する力=自己抑制力や持続して努力する育ちが促され、社会で適応し生きていくことが出来るのでしょう。

3歳くらいからの幼児に集団生活が意味を成すのは譲ってくれない周りの子どもによって壁を経験するからです。今朝園児迎え入れの時チョウチョが飛来し、捕虫網で捕まえていると年少の子どもは網を貸してと言うので貸しました。すると今度は年長の子どもが自分にもと言って取り合い、けんかになり、双方大泣きしました。お互い網を使いたいと主張することでぶつかり、壁にぶち当たる経験をしているのです。思い通り行かない場面に出くわすことで自分を鍛えているのです。つくづく子どもは必要なことを自分で求める力がある賢い存在だと感じます。大人と子どもも壁ですし、子ども同士も壁を乗り越え成長するのでしょう。

 

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学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会