周一ぶつぶつ

2009.07.27
誰でもよかった

2008年度『わかば』より

「誰でもよかった」、近頃の殺人事件の際に良く目にする言葉です。子どもを健康で安全に育てたい、幼気な子どもを育てる親や保育者の切なる願いです。子どもと横断歩道を渡る時、『ほらほら、車が曲がってくるでしょう、オレンジの電気がパカパカついているでしょう』などと話しながら渡ります。挙動不審な人がいれば、ちょっと手を強く握り、遠回りしながら『ちょっと恐そうだったね』と話したりもします。しかし、「誰でもよかった」の言葉は、そんな安全教育の根本を震撼とさせます。
人間の育ちについては、化学実験のように条件を統制しきることはできませんし、様々な要素が絡み合っているので、「こう育てればこんな人間になる、ならない」とは簡単に断言できません。が、近頃の殺人事件を見聞きする時、一つの偏った育て方や育てられ方が透けて見えます。こうです。小さい頃からその子のありのままの感情の発露が励まされていない(あるがままのその子が受け入れられていない)→親の期待に応えようとする偽りの感情を自己の感情と取り違える→偽りの自己を演じ続ける→意識の深部で自己不全感が渦巻く→自己否定的な感情を抱く(自分に自信がもてない)、と続き、その自己否定的な感情が自分に向かって突き立てられると、不登校や引きこもり、果ては自殺に至るのでしょう。これが他者や社会に突き立てられると、陰湿ないじめや身勝手な暴行、果ては社会を恨んで無差別な殺人にも進むのではないかと思うのです。
このように書くと、良く誤解が生じます。勝手気ままにさせればいいんだという誤解です。その子のあるがままが受け入れられると言うことと、勝手気ままは全く違います。社会生活の中ではルールがあります。使った物は元の場所に戻す、公共の場所は来た時よりもきれいにして立ち去る、人に暴力をふるってはいけない、物を盗んではダメなどです。そのように、社会に対してのルールは、教えると言うよりも、大人のモデルが、子どもに定着します。あるがままを受け入れると言うことは、家庭生活の中での子どもと親との対応です。自分の思い通りに行かないことでかんしゃくを起こし、泣き叫んでいる子どもが目の前にいたとします。泣き声に耐えられなくって「なきやみなさい!」とつい叫んでしまいます。子どもが訴えたかったのは、思い通りに行かない自分に悲しく腹を立てているということなのです。関心を持ちながら泣きやむのをじっと待ち、泣きやんだ子どもをしっかり抱きかかえ、「悔しかったね、でもよく自分で泣きやめたよ」とやさしく話しかけると、自分の感情が受け入れられたと感じるでしょう。子どもを叱る時、「お母さんの目を見なさい!!」とよく言います。その目は鬼のように恐いので、子どもは直視することができないのです。少し大人側の感情を落ち着かせる必要があるのです。そして、やっては行けないことを話せば、自分の行動が否定されたようには感じられません。勝手気ままを許すことと子どもの気持ちを受け入れることの違いが少しお分かりいただけたでしょうか。
今回の殺人に戻りますが、30代のいい大人の犯行です。きょうだいの数も少なく、便利で都市化された環境で育ったバブルまっただ中に生まれた人たちです。小さい頃から手を掛けられ、豊富なバーチャル玩具に囲まれ、清潔で行き届きすぎる位手取り足取り育ったのでしょう。その関わりが、前述のようなものであったなら、とても恐い気がします。何故かというと、現代の日本の中で、誰にでも、何処でも起こる可能性があるのですから。
子育てを励まし、親を元気づけ、自分を大切にし社会を愛する人を育てるという仕事は、この日本という国を創り直す位、大切で根本的な仕事なんだと痛感するのです。
参考文献「親子ストレス」汐見稔幸著平凡社新書

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