周一ぶつぶつ

2013.02.19
「不易流行」-新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質である-

あけぼの幼稚園 園長 安家周一
あけぼのの創立は昭和29年です。当時の時代背景を振り返ってみると、戦争が終了してから9年あまり、日本は貧しく、生活も不便きわまりない状況の中、国民はやっと訪れた平和を感じながら、殖産・復興目指してひたいに汗して精出す時代、というようなイメージでしょうか。父、安家茂美は陸軍少尉(飛行機乗りでした)の勤めを解かれ、農民の解放運動に身を投じていました。母安家周子は、自由学園羽仁もと子女史の学びを基礎に、婦人の地位向上や、女性が働き続けることのできる社会システムを実現すべく、婦人解放運動に奔走する闘志でした。その二人は必然的に出会い結婚。理想の施設作りに着手します。私が生まれた頃の話です。
当時の家庭では、貧困や一人親など、生活困窮者の子どもに対しては、児童福祉法が適用され保育所に措置されました。一方、裕福な家庭の子どもたちは幼稚園に通いました。普通の家では小学校に入学するまで、どこの施設にも通わない子どもも大勢いて、遊びは大人の仕事のそばや様々な年齢の子どもと、野っぱらや資材置き場で日中遊ぶという生活の時代です。
このような時代に小学校入学前の子どもが暮らす施設に求められた役割は、二局化されます。一方は、以前から続く貧困、一人親・共稼ぎ家庭に対する保育所と、家庭ではできない教育を施す幼稚園です。茂美・周子の二人は自分たちの運動哲学から「保育所作り」を目指しました。しかし当時の豊中市は、保育所は公立、幼稚園は私立の行政方針を持っており、とりあえず幼稚園作りに挑みます。資金的な裏付けもない、ある意味無鉄砲、ノー天気な計画ですが、様々な協力者も現れ、実現にこぎ着けました。
昭和22年に施工された児童福祉法・学校教育法の基本的概念では、「幼稚園は家庭教育の補完、保育所は家庭保育の代替」と考えられています。昭和20年、30年代の家庭は、貧しく不便ではありましたが3世代などの多様な人の集合体で子どもははぐくまれ、しつけを受けました。子どもは群れて遊び、けんかをしたり意地悪をしたりされたり、人とのコミュニケーションは家庭内のきょうだい関係およびその周辺で学びました。その時代の家庭教育の補完といえば、箸の持ち方を教えたり偏食の矯正は家庭の役割、園では家庭ではできない「絵の具で絵を描く」「粘土で遊ぶ」「ピアノの伴奏で歌う」ようなことが役割でした。一方保育所では、保護者に替わって安全に過ごす、主に「子守」の機能が求められたわけです。
翻って現代を考えてみましょう。当時に比べ、圧倒的に文明は進化しました。どの家庭にもテレビがあって、望めば、家庭にピアノをそろえることはできます。絵の具で絵を描くことももちろんできます。子どものために絵本をたくさん購入する家庭もあります。
敗戦からから60数年たった現代の子どもの環境で不足している育ちの絶対条件を挙げるとすれば、「コミュニケーション能力の獲得」と「しなやかな身のこなし」「自然の中で美しさや匂いを感じることのできる感性」に集約されるでしょう。ある意味、現代の幼稚園・保育所のカリキュラムは、そのことを中心に編成される必要があります。
これは不易流行の一例です。そのように、保育・教育の現場では、人間観や子どもに対する深い理解と愛情そして保護者への心の寄り添いのように、時代が変化しても決して変わることのない基本的な価値観と、時代の変化と共に変えなければならない方法論や評価観があります。私はあけぼの創立以来2代目の責任者ですが、このことが一番大切な私の仕事とと自覚し、保護者とそのことを共有したいと思っています。そのためには、保護者と私たちが、学びの共同体を構築する必要を強く感じています。

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学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会