学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会
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安家周一
人は人との関係において「人間」になります。必ず、他の人の関与がなければ、人間に成長することは出来ません。だから、ほ乳類人科を「人との間=人間」と呼ぶのだと思います。生まれたての頃から、多種多様な人に関わってもらい、抱かれ、ほ乳、食事の世話になり、おむつを交換してもらう中で人の温かさや安心感を獲得します。これが生きていく基礎の部分です。
その基礎の上に、様々な人との生活の中で、物や順番の取り合い、友達との葛藤を繰り返し経験する中で、様々な学びを経験し、少しずつ多様性を身につけていきます。そのような経験をするところが、保育所や幼稚園という、集団の生活や遊びの場であり、あけぼのはその環境を大切にしてきました。
あけぼの全施設の母体であるあけぼの幼稚園は、昭和29年創立です。23名の入園者から始まりました。創立10年の昭和39年、近くにお住まいの肢体不自由女児のお母さんが幼稚園を訪ねてこられ『このような子でも入園できるのでしょうか?』おそるおそる聞かれたそうです。(創設者安家周子談)もちろん、しょうがいを持つ子どもに対する保育の自信があったわけではないと思うのですが、入園が許可され、翌年2年保育で入園されることになりました。動きが不自由で、周りの子どもたちはそのような子どもに接したことがないこともあり、大人の見ていないところでこづいてみたり、手をつないでみたりで興味津々だった様です。これがあけぼののしょうがいを持った子どもを含めた保育の始まりです。
ごく自然ないきさつで始まったことではありましたが、その当時、小学校の体育館の隅に特殊学級が設置され、一般の子どもとは隔離された空間で障害児が入っていた時代ですから、大きな冒険でした。しかし、共に生活をする内に、周りの子どもたちも徐々にその子どもの特性を理解し、聞き取りにくい言葉にも慣れ、助けが必要なときには手をさしのべ、見まもるときには我慢強く待つ様子に、大人の方が驚かされることの方が多かったと聞きます。しょうがいをもつ子どもとの生活は、子どもたちの当たり前をくつがえし、常識を問い直させる機会ともなりました。当時全国の幼稚園団体の研修会で、保育の様子を研究発表し、全国から見学者が訪れるるなど、大きな反響も呼びました。
昭和52年、私はあけぼの幼稚園に入職します。臨床心理を専攻し自閉の子どもとの付き合いをしていた私に違和感はありませんでしたが、父、理事長安家茂美にしょうがいの子を含めた保育について様々考えを聞きました。今も鮮明に残っている父の言葉は『人間は多様である』『私たちは弱い者の側に立つ』という言葉です。この考えは、あけぼのを貫く哲学として、現在も生き続けている考え方です。
又、幼稚園として出発したあけぼのですが、昭和51年には、豊中市と協議の上で、幼稚園に簡易保育所を併設します。この段階でも、あけぼのの多様性の幅はより広く、深くなっていきました。もちろん、そこで保育を担当する保育者たちの努力は、他の園の比にならない位大きく、幅広い研究や深い思慮が求められたことは言うまでもありません。赴任してまもなくではありましたが、夜半までカンカンガクガクの議論が続くこともあり、その熱心さに頭が下がりました。
先日卒園10年目、当時の園児は15歳の保護者の方々と酒を酌み交わしながら懇談する機会がありました。そのときに実際お聞きした話ですが、東京のある地区では、私立中学受験のため 小学校6年生の3学期には、生徒の20%位しか学校に登校しない学校もあるというのです。有名私立学校は一定の学力以上の子どもたちだけ集められ、確かに教育が効率的に行われるのだろうとは思いますが、本来そこで学ぶ必要のある多様性にはほど遠い集団での学びしか得られない結果となります。うまくいっていい学校を卒業しても、残念ながら社会というものの実態は全く多様と異端がこり固まっており、その中で柔らかく時には強情に生き抜かなければならないわけでありますから、多様性不足には全く歯が立たないことは明らかです。成人の鬱(うつ)、引きこもりなどの増大は、幼少期に多様性を獲得することが不足していたことで説明もつきます。
多様な人との経験を、10歳位までの人との関係に柔軟な時期に経験し、社会人としての基礎の部分を底辺に、様々な学習を積み上げます。多様な人と複雑な関係を調整することの経験の上に立って、学問が成立し、コミュニケーション手段である英語などの外国語の獲得も生きていくことになります。
『弱い者の側に立つ』という哲学を肝に銘じ、保護者の方々と深く話し合い、理解しあえる事ができるような園となるよう努力を惜しみません。