学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会
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園長 安家周一
平成26年度であけぼの幼稚園は創立60周年を迎えています。このめでたい年を、子ども達、保護者、教職員、みんなでお祝い出来ることに心から感謝申し上げます。
創設者である母周子は、自由学園学園長、羽仁もと子先生に大きな影響を受けます。日本における女性新聞記者第1号であるもと子女史は、女性の社会的開放を願い、当時着物を着て生活していた女性が活動を妨げられる原因は「着物の袂」にあると考え、割烹着を考案したことで有名な方です。その後、雑誌「婦人の友」を創刊し、女性の合理的な家計のための家計簿の考案など、男性中心の社会から女性を開放すべく努力されました。加えて女子教育のための学校「自由学園」を創設され、周子は感銘を受けた母の薦めもあり、上京し自由学園に学びます。その後、大阪市役所に勤務し労働組合女性部長を務め、女性解放運動にのめり込みます。そこで、当時農民運動家であった父茂美との出会いを経て、結婚に至ります。
あけぼの幼稚園は、創設者安家茂美・周子夫妻が若干32歳の昭和28年11月に、婦人之友社友の会の協力者や地域の方々のご支援を請け大阪府知事認可を得て、翌昭和29年4月にここ豊中市南桜塚に第一歩を踏み出しました。当時近隣では、北側に日立造船独身寮(戦後アメリカ軍に接収)があるだけで、一面の空き地が広がっており、すぐ近くに牧場が2カ所ありました。
わたしが小学生の頃、私たち家族は幼稚園の片隅に住まいしており、よく牧場に牛乳を買いに行かされました。牛の糞尿の匂いと共に、表面にもろもろが浮いていて濃厚だったミルクを思い出します。そんな牧歌的な土地でスタートを切ったわけですが、当然住人も少なく、開園当初は園児20名あまり、教員3名のスタートです。当時の制服は私服の上にブルーのスモックを羽織っていました。このスモックは私の祖父が、昭和の一時期テーラーを営んでおり、仕立てを担当していた祖母が、園児のために手作りで製作していました。さぞかし仕立てが良いスモックだったと思います。
当時、あけぼの幼稚園は健康教育である「裸教育」を推進しており、年がら年中上半身裸の生活でした。保育者も1年中半袖。今でも年配の方々は「あけぼのは裸教育やな」と言っていただけるほど、近所では有名でした。平成になっても薄着教育として続いています。
私は昭和52年にあけぼのに就職します。学びの多い日々を過ごし、気のいい仲間と楽しい保育生活を送りました。当時、しょうがいを持った園児が多く在園し、しょうがい児クラスの担当として、汗とよだれにまみれた至極の時間を過ごさせていただきました。むさぼるように研究会に出かけ、貴重な学びの時間もこの頃の思い出です。その後、昭和63年に理事長安家茂美死去、あけぼの学園の理事長、幼稚園園長を36歳で引き継ぎ、早25年が経過しました。
あけぼのには手動ポンプの井戸があります。子どもにとって泥遊び、水遊びがとても大切であり、毎日盛んに遊んでいたこともあって、当時の水道代は50万円を超え、経済的には悲鳴を上げていました。そこで27年前の夏休みに、当時の男性保育者と比呂志さん、川勝さん、私たちで井戸を掘りました。直径1,5㍍、深さ5㍍の穴をスコップで手掘りし、コンクリート菅を埋め込み、ふたを作り、井戸ポンプを据えています。水道代は10万円位に下がり、水道局の方が驚いて見に来られたこともありました。今思い出しても自分ながらすごいことを思いつき、よくやったと思います。子ども達は、何かまうことなく井戸から水をくみ上げ、泥遊びに興じます。
常に保育の原点を振り返り、人間教育の基礎である乳幼児期の価値を再確認することに精を出し、一生懸命子育てに奮闘する保護者、熱心でパワフルな保育者に支えられながら、将来「自由な人間になる」事を目指して、日本の幼稚園・保育園のモデルとなるような、あけぼのオリジナルな保育を創造してきたと自負しています。
60周年を迎えた今、国では「子ども子育て新システム」が始まろうとしています。残念ながら、非常に不可解な制度で混乱も予想されますが、あけぼの幼稚園はぶれることなく、子どもの価値を中心にし、豊かな生活と遊びが大切にされる子どもの園を貫き通したいと決意を新たにしています。
多くの卒園生の方々、その保護者の方々に見まもられ、100周年に向かって歩みを進めます。どうぞご支援、ご鞭撻を賜りますようお願いいたします。