学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会
Copyright © AKEBONO Kindergarten Group. All Rights Reserved.
34歳の時、当時あけぼので行われていた保育にいろいろ疑問を持ち、大きな悩みの淵にありました。障碍を持つ子どもと共に包括保育をしているのに、子どもたちの評価が「相対評価」なのです。肢体不自由のK君も運動会では同じ距離を走り、順位の旗に並ぶのです。恥ずかしい話ですが当時は、順位の旗が1等2等3等とそれ以外はカメの旗だったのです。K君は肢体不自由でしたが上半身は全く正常で、すごく賢い園児でした。かけっこも3年保育のときから一生懸命ハイハイで頑張るのです。毎回順位はカメでした。
私はわからなくなりました。学びなおしを決意し大学院に入りなおしました。担当教官は心理学専攻の岡部毅さん(故人)でした。ゼミの時間はそれはそれは楽しく、様々な議論をしました。その時、「安家さん、ペルソナって知っていますか?」と聞かれました。「ペルソナはパーソナリティの原語で、仮面という意味なのだそうです。人は何枚ものペルソナ=仮面を持っていて、時と事と相手によって仮面をかぶり替えて生きているんですよ」と話されました。日本茶とたばこの煙の匂いと共に深く記憶に残っています。
心理学的に表現すると「ペルソナ≒外界に適応するために必要な社会的・表面的人格」です。一般的にパーソナリティ=人格ととらえられがちですが、そうではないようです。
『子は幼いころに親(主たる養育者)を通して「内的作業モデル」、簡単に言うと、他者とかかわるときに無意識に使われるテンプレート(筆者:形、かまえ)を身につける。小さいころ周りから受容されて育った子は、自分が困ったら相手にこう伝えれば伝わるものだと相手に信頼を置いて行うコミュニケーションスタイルを学習できる。
拒絶されて育った子どもは、本当に必要なものがあっても言わずに黙ってしまう。泣き叫ばなければ要求に応じてもらえなかった子は、ちょっとでも困ったことがあると感情的になり、必要以上に激しく主張し周りからおそれられたり敬遠されたりしてしまう。信頼を置いて行うコミュニケーションを学ぶことができなかった場合、親以外の相手、例えば友人、恋人、パートナーなどに対しても、過剰な遠慮や回避、そして過剰な応答をしてしまう傾向ができあがってしまう。』引用文献:「ペルソナ」中野信子著 講談社現代新書
保護者の皆さんと懇談をしていると、よく話題に出るのが「結婚するまで自分は比較的温和で優しい方だと思っていた。でも結婚してからはこんなに意地悪で怒りっぽい性格だと知った」というのがあります。訳も分からないが腹が立ち子どもにあたってしまう。夫にもひどい言葉をかけている自分を後で反省する。
怒りや恨みなど、自分の中に内在する様々な感情の仮面≒ペルソナはどんな仮面が何枚ほどあるのかをはっきりと分かっている人はいないと思います。子どもを見ても、家では甘えたで片付けもできず、だらだら過ごしているのに、幼稚園ではリーダーシップを発揮しはつらつと生活している。彼は2重人格なのですか?と質問される場合もあります。集団で発揮される信頼感あふれる自己発揮は、まさしく小さいころから養育者に培われた我が子のペルソナの1枚なのでしょう。きっと信頼に値し頼もしく育つことでしょう。
しかし反対に、家ではお利口さんなのに、仮装して入った保育参加で見た姿はわがまま放題で、傍若無人な姿があった。そのような場合帰宅後ついそのことを強く怒ってしまいがちです。しかし、親と子の交流で培われたものなので、簡単に変化させることは難しいのかもしれません。その子が大きくなるにつけ出会う様々な難儀をまえに、「その難儀は自分にとってどのような意味があるのだろう」と内省することによって、少しずつ改善に向かうのかもしれません。
子どもたちが社会で生きる、活躍する2050年ころ、地球はどうなっているでしょうか。人工知能やロボットの台頭で工場でのものつくりや単純労働、あまり頭を使わなくてもできる仕事を人間が担うことはないでしょう。男女とも、相手の思いを推し量ること、環境問題やSDGsなど、人が生きることに貢献することは今以上に求められることでしょう。人と共存し器用に生きる力が真に必要です。
人のペルソナが主に作られる時期は子どもが親の周りで生きる10歳くらいまでなのだと思います。それ以降は社会や人の荒波の中で、下手でも一人で泳がなければなりません。
早くなくてもいいのです、自分なりにゆっくり、確実に泳ぎ切る力はやはり乳幼児期がカギです。このようなかたちで保護者の皆さんに対して様々な働きかけが可能な時期はほぼ幼児期で終わりです。共に育て心を一つにすることが大切と思います。
私の座右の銘は「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(ぎょく)にす」です。様々な難儀に出会う中で自分が磨かれ、やがて宝物のように輝くであろうことを信じて生きたいと念じます。