周一ぶつぶつ

2021.01.07
特殊教育から特別支援教育 そして 支援教育へ

あけぼの幼稚園は昭和38年、近くに住む肢体不自由児の女児を受け入れたことから、多様な子どもが豊かに生活し遊び楽しむ幼稚園の1歩を歩み始めました。もちろん障碍児保育を経験した保育者もいませんし、そのことを前提にしたカリキュラムも持っていない時代に、当時の園長はやってみようと当時の保育者に働きかけ、保護者の理解を得ることは想像するだけで困難で大変なことだったと想像されます。私が通った公立小学校でも、体育館の倉庫を改造した狭い部屋に特殊学級が設置され、障碍のある児童はその部屋で教育を受け、体育などは親学級に戻り皆に交じって授業を受けるような時代でした。当時は公立幼稚園や保育所でも積極的な障碍児の受け入れは難しく、義務教育期間であっても家庭での生活を余儀なくされていた児童もいました。障碍がある子どもが生まれると世間体が悪いといって隠すような風潮さえありました。爾来、これまでの間に数百人の支援児を含め、沢山の子どもたちと保護者との泣き笑いの歴史があります。まさに教育の原点を問い直さなければならない貴重な経験でした。

 私は大学で臨床心理学を専攻し障碍児のことを学びました。当時子どもの自閉症という概念はなく、「小児分裂病(現在は統合失調症)」と考えられていたものから、カナーやアスペルガーなどの学者が小児自閉症との学説を発表ししばらくの時間がたっていました。この症状の原因も、生後の養育の中で子どもの扱いが悪かったなどと、主なる養育者である母親に原因が求められるような時代です。自閉症状を持った子の親は肩身の狭い思いをされていました。その後あけぼの幼稚園に入職した私は障碍児クラス「チューリップ組」の担当を命ぜられます。

10数名の様々な障害を持つ子どもとの保育が手探りで続きます。園に通ううちに少しずつ安定した子どもから順に普通学級に移行するシステムを「ブリッジ=橋渡し」と銘打って統合保育を進めました。しかしあくまでも健常と障碍という違ったものを混ぜ合わせるという「統合」であり、現在のように共に生きる存在であるという包括的教育の概念ではありませんでした。チューリップ組の保護者の方々と能勢の農家で合宿保育を何度も行い、夜が更けるのも忘れて語り合いました。その後、平成15年にノーマライゼーションに基づく「障害者自立支援法」などの法律も施行されました。

 その後国は従来から何らかの障碍がある幼児、児童生徒を「特殊教育」と呼ばれる制度の中で、健常児、特殊学級、養護学校などの教育成度を用意し、教育活動を行う考え方から平成194月に法改正が行われ、特殊教育から特別支援教育へとかじを切ったのです。

特別支援教育とは、「障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うもの」です。と規定されました。この文章の書きだし「特別支援教育とは、障害のある・・・」のところを削除し「本来教育とは」に書き換えてもよいと私は思っています。

歴史の中で被差別部落や在日朝鮮・韓国人との差別問題に向き合う同和教育の盛んだった大阪では、国が「特殊教育」と定義していたときは「特殊教育」ではなく「養護教育」と定義し、その後「特別支援教育」に切り替わった時はその子どもたちは「特別」な存在ではないという人権意識をもとに特別という文字を取り去り「支援教育」と呼称しています。人間の能力は元々不平等で、教育は一人一人のその子に応じた合理的な支援が公正であるという哲学です。

あけぼのでは、健常や障碍と区切るのではなく一人一人に応じた合理的配慮をするために保育者たちは努力します。その一つの表れが、現在取り組み、家庭と交換をしている一人一人の学びの物語「ラーニングストーリー」でもあります。まだまだ学びは足りず道半ばですが、この基本的考え方を大切に、保護者と手を携え教育活動を組み立てます。

この「輪になって」の冊子は40年前にガリ版で障碍を持つ子の保護者と教職員が綴り始めたものが40年の時を刻んでいます。人間の生き方や子育て・子育ち、学びを考え直す機会になればと思います。皆様方のご意見や感想をお寄せいただければ幸いです。

参考:文部科学省「特別支援教育」とは

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学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会