周一ぶつぶつ

2021.07.27
生物多様性・SDGsへの道

あけぼのの草創期

あけぼの幼稚園は昭和29年4月に開園しました。創設者である私の母は、女性が自立し生活するためには、経済的・精神的自立が大切と考え、そのためには女性が仕事を続けることが大切と考え豊中に保育所を設立したいと市に掛け合いました。しかし当時の豊中市の方針で幼稚園は私立、保育所は公立という取り決めがあり、母の申し出は却下されました。

そこで、まずは私立幼稚園を設置することとなったわけです。私立幼稚園の設立は、莫大な資金が必要でした。公的な支援は全くない中、父は株式会社で働き資金を調達し、母は母校である自由学園の関係者や友の会の皆さんに働きかけ、寄付集めに駆けずり回りました。父母ともに30歳の若さで、無鉄砲ともいえる行為だったと思います。幸い、現在の南桜塚2丁目(当時は桜塚本通り2丁目と呼ばれていました)の地主さんから土地200坪ほどを借り受け、木造平屋の建物を作り、3・4・5歳児3クラス(当時他の園は5歳児のみの1年保育)、定員120名の設置認可を取得し、スタートを切りました。初年度入園児は24名でしたが、母の情熱に呼応して、他の園に入園が決まっていたのに転園なさった方までおられました。他の園の入園料が3000円、あけぼのは30000円で驚かれたと話していました。

ついに保育所を併設

昭和50年、創立から20年ほどたったころ、行政ともフランクに話ができる関係もあって、将来の豊中市は働く女性も増加し保育所が不足する時代が来ると説き、私立幼稚園、教会、寺、神社などにある空き部屋を使って簡易的な保育所作りを提案します。当時の市長、助役も大変興味を持ち、昭和51年には豊中市の条例に基づく(厚生省的には無認可)簡易保育所が出発しました。あけぼのにも待望の2歳児~5歳児、40名定員の保育所が誕生し、幼稚園と保育所の幼保一元施設が豊中市に誕生しました。まさしく1号2号3号児が生活する認定こども園のプロトタイプといっても過言ではありません。

障碍児保育への挑戦 

園主と呼ばれていた父安家茂美は「あけぼの障碍児相談室」を開設し、相談に乗ると同時に、障碍児の入園が本格的に始まりました。自閉症、ダウン症、肢体不自由、脳性麻痺、水頭症、2分脊椎など様々なタイプの子どもたちでした。入園当初はチューリップ組の部屋で1対1の関係を重視する関りから、徐々に安定してくると、健常児のクラスに橋渡しをするという方法で、統合を図っていきました。普通の園に障碍児の入園が許可されることは公立の幼稚園や公立保育所でもほとんどなく、このことを聞きつけた大阪市、兵庫県在住の方々も、たくさん入園を希望されました。多い時で、200人中50人くらいの障碍児が在園していたこともあります。私は担当として保育に携わるとともに保護者と懇談をし、悩みや不安を共有し、支え合いながらの園生活でした。健常児と障碍児という区別の中で、自分のクラスにあの子がいるから保育が進まない、など、健常児の保護者に理解してもらうことは難しく、様々なご批判もいただきました。

異文化多様性・SDGs保育の追求へ

あけぼのの歴史は、幼稚園(文科)と保育所(厚労)、5歳までの長短時間異年齢保育に加え、健常児と障碍児の共生、また食生活の安全化や通園バスの廃止など、振り返ってみると「異文化、多様性、SDGs保育の追求」の探求でもあります。現代では、0歳児から5歳児までの子どもが同じ園にいるのは自然で、その中に、多様な発達や機能を持った子どもたちが混在することも当たり前となる時代になりました。私たちの取り組みが他の方々よりも相当早かったこともあって、ビハインドの中で進むことは困難を極めましたが、熱心で理解のある保護者や保育者に支えられ、今や私たちの歩いてきた道を同業他園の皆さんが歩まれていることに感慨を覚えています。これからも教育内容、環境の充実に没頭したく思います。

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学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会