周一ぶつぶつ

2024.02.01
一人一人の発達は違うんだよ

私があけぼの幼稚園に入職した昭和50年ころ、あけぼの幼稚園には多くの障碍児が在園していました。特に不思議には感じませんでしたが、他の園の障碍児の受け入れは進んでおらず、入園を断られるケースが多くあったようです。当時は健常児と障碍児が共に生活する保育を「統合(違ったものを一緒にする)保育」と呼んでいた時代です。大学時代小児自閉症を研究するゼミに所属しており、発達相談室などで手伝いの経験もあって、存在そのものに特に不思議は感じていませんでしたが、250人くらいの園児の中で20人ほどの障碍児の割合には違和感を感じていました。

当時入園した障碍児は、入園当初「チューリップ組」と呼ばれる少人数のクラスに入り、生活を始めていました。親以外の先生との関係や、今まで経験のなかったあそびや生活をゆっくり経験するための慣らしのための手段です。徐々に安定して生活できるようになったころ、育ちに相応した学年のクラスに橋渡しをし、健常児との生活が始まります。園の教育課程や指導計画は、一律に子どもたちが同じことを同じようにする活動が予定され、障碍児がその活動になじむことは難しく、加配の保育者がその子に合ったおもちゃや活動を健常児に交じって行うような統合保育でした。体操など、嫌がる子どもに対して無理に手足を動かしてやらせることもありました。情緒が不安定になる子どもも多く、安定するのが難しい様子でした。

運動会の前に話し合いが持たれました。肢体不自由児のかけっこ参加をどうするか、です。二分脊椎症の手術の結果上半身に神経は通わず、上半身は健常児と何ら変わらないのですが、排泄や歩行は介助が必要でした。その子の走る距離をどのように考えるかの議論です。他の子と同じ距離を走らせるべきだという意見と、それは無理なので短い距離の移動にとどめるべきだとの2つの考え方に分かれました。その年は結局同じ距離が選択され、私はとても理解できずに大きな疑問が残りました。

仲間研で共に学ぶ機会を得て、そのような話をした折、小田豊さんは「人の発達は風船のようなもので、空気が少ししか入っていなくても、完全な風船。いっぱい入っていても同じ風船。いずれの風船にも優劣はつけられない。どのように膨らむかは、一人一人バラバラで人によって違っていいんだ」と話されました。

同じ内容の教育課題をすべての子どもが同じようにこなすことが当然と考えられていた当時、一人一人の発達によって課題や速度も違っていいんだという言葉に、心の中に渦巻いていたもやもやした霧が晴れた気持ちになりました。そうでないと、健常児と障碍児が一つに包含される教育環境にはならないことに気づかされたのです。

平成に入り、幼稚園教育要領が改訂され、一人一人の教育課題を求める考え方が位置づきました。そして、現在では小学校以上の教育においても「個別最適化」が求められるような教育体制が整備されつつあります。まさしく、幼児期の一人一人の違いを教育活動に反映させる保育理念が、小学校教育の接続における共通した価値として考えられるようになったわけです。急な変化は望めませんが、幼小の教員が理解を深めつつ学べるチャンスが到来しています。

「発達」って?、と問われると、右肩上がりの上昇をイメージされることが多くありますが、年齢が2歳であろうが、心身にハンディーがあろうが、その人はその時点で十二分に成熟しているという発達観に気づかされます。毎朝鏡に向かって自らの頭や顔を見ながら「今日も発達している」と満足できるのも小田さんのおかげかと感謝します。その人らしい生き方・育ちが保障される社会となることを追求する手がかりが「発達の風船理論」にあるのだと思います。

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学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会