園の下の力持ち

2019.12.10
食事をするということ

人は一日に基本的には朝・昼・晩と3回の食事をします。家庭の事情によってどんなタイミングで家族が揃って食事をすることができるのかはそれぞれかもしれませんが、食事をする時間というのは、家庭においては大きなコミュニケーションの時間であるはずです。

一方、昼の食事についてはそれぞれが過ごす生活の場所で行われることが多いため、職場や、学校、外出先など様々であることが多いでしょう。その際でも、一人ではない限り同席する人たちとのコミュニケーションの時間になっていることが多いと思います。

私は、小学校の学校給食は基本的にはパン食が多く、パンが苦手で咀嚼がうまくいかない上に食事中に摂れる水分も200mlの牛乳瓶一本という状況で、口に入れたパンを流し込めずいつも食べ終わるのは午後の授業直前だった辛い過去を持ちます。給食の時間がこの上なく耐えがたい時間の連続でした。誰も見ていない隙にパンを机の右奥へ押し込んで段々教科書が机の中に入らなくなっていくことも経験しました。更に、中学・高校での寮生活では高校生と同じ量を中学生のお皿にも盛り付けられ、口に食べ物を沢山詰め込んで早く食べられる努力をしているつもりにも関わらず、詰め込み過ぎた食べ物を飲み込むことができずに、ハムスターの様にほっぺたいっぱいにご飯が入り、それを飲み込めないが故にいつも食べ終わるのが遅く、食堂の掃除が始まってもまだ食べ終われずこれまた辛かった記憶があります。高校生になって、あまり噛まなくても飲み込むことができるようになるまで、食事の時間があまり好きではありませんでした。よく噛んで食べることが大切だなんて言われても、自分の経験からすれば早く食べ終われる方がよほど良いと思うようになった、早く食べられる人は格好いいと、健康の観点からは逆行した価値観を持った時期でもありました。

先日とある記事で、学校教育の中で昼食の時間に「しゃべってはいけない」というルール(もぐもぐタイム等と呼ばれている)が存在することが書かれていました。私が過去に見学したいくつかの幼稚園や小学校でも同様のルールが存在し、子どもたちは目の前にいる子どもたちとお話しすることなく、ただひたすらにお皿の上の食事やお弁当を食べ進めるという光景でした。

食事というものは、ただ食べ物を食べるという行為以上に意味や価値があるものであると考えます。「何を食べるか」ではなく「誰と食べるか、何を話すか」ということにも大きな意味があり、その食事と言う時間の中で共感したり議論したりする中で、味覚だけに留まらない経験を得ている時間であると思います。それが一部の学校において食べることだけに意識を向けられようとしているのは、本来の食事の持つ意義を棚に上げて、時間内に提供された分量の食材を押し込むこと、その後の時間の割り振りを乱さないように個々のペースを無視していることなのではないでしょうか。何も話さずに黙々と食べる食事は、その食事の美味しさが半減してしまうと個人的には思います。

家庭での食事を思い返せば、家族が揃って食事をする際には沢山の話をして、その日あった嬉しかったこと、感動したこと、悔しかったこと、悲しかったこと、これからのこと、週末の予定、今日の食事の美味しさ、様々なことをそれぞれ家族の視点で話すことのできる貴重な時間であったと思います。そして自分のペースで会話の流れに身を任せながら食べ進めることのできる、大好きな時間でもありました。同じ食べるという行為にも関わらず、食事をするという行為そのものに対する印象が違っていました。

食べることが生きるために必要な行為である以上に、人間だからこその食事の時間の意義を、子どもの視点に立って是非考えていきたいと思います。美味しいものを楽しい会話の中で食べる食事の持つ素晴らしい価値は、大人になって美味しいと感じる食材が増え、更に実感されるところです。その機会を前に、食べること、食事の時間が嫌いになるようなことがあってはならないと思います。

 

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学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会