園の下の力持ち

2020.02.01
子どもは一人では泣かない

年末に多くの職員と共に参加した研究会の中で、「子どもは一人では泣かない」という言葉を聞いて、すごくハッとさせられました。

ここでいう子どもとは、乳児ではなく幼児になってからのことを指すのだろうと思いますが、本当に絶望的な状況や耐えがたい痛みではない限り、そこに他者の存在を確認して初めて子どもは「泣く」のではないか。誰かに受け止めてもらいたくて初めて、子ども達は「泣く」という表現を使うのではないか。そのようなことを考え始めました。もしもそうだとすると、感情に揺すぶられて「泣く」という行為は、実は他者との関係性や相互関係によって成り立つ一種のコミュニケーションツールなのではないか。そう仮定すると、「泣く」というものは「嬉しい」「悲しい」「寂しい」などという感情が表出した一つの形ではなく、深い喜びや悲しみ、痛みということを他者に表現する方法の一つなのだということかもしれません。そう考えると、感情の表出は、実は表情でしか表されることがないのかもしれません。実際、人間の脳はまだほとんど解明されていませんが、これらの感情を司る脳の部分と、それが関連して何らかの形で表出する表情であったり、涙であったりということとの関連性は実に興味深いものです。ただその仮定で行くと、感動によって自然と湧き出す涙は説明ができないことにもなります。難しい…。子どもが感動では涙を流さない、という学説があるのだとすれば、この仮定は成り立つのですが…。

感情の表現として現れる涙と、コミュニケーションツールとしての涙。どちらももしかすると本当の涙であり、でも後者はもしかすると演技に近い涙なのかもしれない。いずれにせよ子どもはたった一人では泣かない(可能性が高い)ということを考えさせられる年末年始となりました。

少し話の内容がずれるかもしれませんが、自分が小学生の頃に、実は自転車で車に轢かれた経験があります。信号の無い、通いなれた通学路を放課後に一旦自宅に戻り、その後公園に向かっていた時のことです。横断歩道を渡り始めたその瞬間、左から走ってきた乗用車にぶつかられ、右方向へ自転車ごと吹き飛ばされました。身体が浮かんだあの瞬間のことは今でも思い出すことがあります。ちょうど寒い時期で、長袖長ズボンに手袋を着用していたこともあり、自転車ごと右半身から地面に落ちたものの、長袖長ズボンに守られて服が地面と擦れてできた傷くらいしか確認できず、幸運にも頭などは打っておらず、大きな外傷がなかったこともあり、とてつもなく驚いた様子で車から走り出てきた運転手の男性に「大丈夫だから早く行って」などと言い、逃げるようにしてそのまま公園に向かった記憶が鮮明にあります。その後、実際には恐怖で一人誰にも言えず震えたことも覚えています。

今考えてみればきちんと救急車や警察を待って処理しなければとんでもないことになりそうなものですが、小学生の時に頭に浮かんだのは「怒られる」という感情でした。「不注意な自転車の乗り方をしていたあなたが悪い」「左右確認せずに横断歩道をそのまま自転車で突っ切ったのが悪い」そんなことを言われるにきまってる。それなら大事になる前にこの場を走り抜けた方が賢明だ。男なら、これしきの痛みぐっとこらえて走り切れ。そんな感覚だったことをよく覚えています。

この状況で、近くに知っている大人がいたなら(実は同級生の家の前ではありましたが)、痛みや悔しさなどからきっと涙が出てきただろうと思います。それでも、この状況の中で自分が取った行動は大人にはきっと理解しがたいものだったに違いありません。もしも自分にこのような経験が無く、我が子が同じことをしたなら、「なぜ?」という感覚に囚われること間違いないと思います。それでも私はあの時一人では泣けなかった。その時の自分と「子どもは一人では泣けない」という言葉をリンクさせながら、脳科学の奥深さに興味が尽きません。『単純な脳、複雑な私(池谷裕二著)』という本のタイトル、実に秀逸なネーミングです。

 

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学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会