園の下の力持ち

2022.05.25
『多様性と発達障がい』

様々な価値観として多様性を受け入れる社会的な風潮の中で、LGBTQと呼ばれる性的マイノリティを始め、肌の色や目の色、髪の色が違っていてもそれは当然のこととして受け入れるグローバルな視点が欧米に比べれば大幅な遅れがありつつ、この日本でも少しずつ浸透しつつあります。当園にも日本以外のルーツを持つ子どもたちが在籍しており、当然園のおままごとコーナーに配置されている赤ちゃんの人形は、様々なスキンカラーのものが配置されています。

「みんなちがって、みんないい」という有名な言葉がありますが、この言葉は発達差が大きい幼児教育の中ではしばしば肯定的な意味合いで用いられることがあります。私もこの言葉に共感しますし、その発達のデコボコ具合がまた、乳幼児期の個性だといえるとも思っています。

一方で、先日読了した『子どもが心配 人として大事な三つの力 養老孟司 PHP新書』の中で、「ケーキの切れない非行少年たち」の著者で臨床心理士の宮口幸治さんと養老孟司の対談部分に、ドキッとさせられる一文がありました。

いまは「みんな違っていい」とよく言われますが、子どもの多くは「みんなと同じがいい」と思っています。「みんなと同じじゃなくてもいいんだよ。自分のやりたいことをやろうよ」なんていうのは、大人の勝手な論理でしかないのです。みんなと同じようになるのが大前提で、多様性はその上に乗っかっているもの。最近はそこを勘違いして、「多様性」という言葉を簡単に使いすぎているような気がします。(原文ママ)

 確かに、犯罪を犯してしまった後で大きくなってから発達障がいなどが発覚したような少年少女たちは、意図的に最初から他者との違いを出そうとして生きてきたというより、他者と同じようにできなかったというそもそもの前提があった可能性が高いわけです。従ってそれを多様性と呼ぶことは実際には正しくない。本来このようなことに対する多様性というものは、まずは他人とある程度同じようにしよう、振る舞おうと思えばできるという前提があって、それでもそのことに根本的な息苦しさや生きにくさを感じる事をきっかけに、自らの個性を大切にした結果としての表現方法の一つであるはずなのです。現代社会が多様性に寛容であるという風潮が広がる中で、実は困っている人が多様性という言葉に飲み込まれてしまい、困り感に気づかれない、そういった問題も今後ますますケアしていかなくてはならない問題だと感じています。

ページの
先頭へ

学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会