学校法人あけぼの学園/社会福祉法人あけぼの事業福祉会
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「お客様は神様です」
この言葉は、もともと舞台に立つ芸能者の心構えとして語られたはずだった。だがいつしか意味がすり替えられ、他者を支配するための免罪符として、日常に根を張った。「神」としてのふるまいを許された客は、従業員に対し、人格を否定するような言葉や態度を平然とぶつける。これがカスタマーハラスメント――カスハラだ。客という立場を盾にして従業員に理不尽な要求や暴言を浴びせる、見えにくい暴力の一形態である。もう一度言う、 客という立場を盾にして従業員に理不尽な要求や暴言を浴びせる、見えにくい暴力の一形態である。
「金を払ってるんだから当然だろう」「こんな対応じゃ済まされないぞ」「責任者を出せ」。——それらの言葉に込められたのは、正当な苦情ではない。そこにあるのは、支配欲と屈服を求める傲慢さだ。接客業に従事する人々は、笑顔の裏で何度も心をすり減らし、涙を飲み込んでいる。
哲学者カントは、他者を「目的として扱え」と言った。他者を手段にしてはならない、という倫理の根幹だ。だがカスハラは、まさにこの命題を踏みにじる。客は自らの欲求を満たすために、従業員を「我慢する機械」に変えようとする。人格のあるひとりの人間を、物のように扱うその態度は、理性の名において拒まれるべきだ。
現代のサービス業では、笑顔と丁寧な言葉が当たり前とされる。しかしそれは「感情労働」であり、しばしば自己犠牲を伴う。ソクラテスは「自分自身を知れ」と説いたが、感情を抑え続ける仕事の中で、従業員たちはしばしば「自分自身」を見失っていく。カスハラは、その人格の輪郭をさらに曖昧にし、人を人でなくす。
実は保育の世界にも同じような状況が数多く起こり、保護者対応への苦慮から退職を選ぶ人が多い。
社会契約論のロックやルソーが説いたように、自由とは無制限の欲望を許すことではない。他者の権利を尊重することによって、はじめて自由は共有される。つまり、サービスを受ける自由には、サービスを提供する側への尊重が伴っていなければならない。カスハラとは、この社会契約を破壊する行為であり、放置することは公共の倫理の劣化を招く。
では、どうすればよいか。
まず、組織は働く人を守る義務がある。「謝って済ませろ」という文化は、正義の不在を意味する。現場の声に耳を傾け、「人間の尊厳を守る」という哲学的姿勢が求められている。だから私はまず、職員をそのようなものから守る。まるで自分の方が分かっていると言わんばかりに自己主張を押し付ける相手の魂胆は、上述の通りだ。支配欲と屈服を求める傲慢さでしかない。
私たち一人ひとりが、「客だから偉い」という幻想を手放すべきだとも思う。客である前に人であり、相手もまた人である。私たちはみな、同じ地平に立って生きている――その当たり前を、忘れてはならない。
カスハラを許さないという選択は、単なる一法人の方針ではない。それは、人間の尊厳を肯定するという、根源的な倫理の宣言である。
最近哲学書を読みすぎて、それをベースとした現実世界の分析が何より面白い。